2011年1月23日日曜日

2011.01.23 SUMISM2011-1 (すみイズム2011-1)

今回はエッセイのoutputということで書かせてもらいます。
たまには音楽じゃなくてもいいでしょ!?



(BGM: 大切な人へ Oto-nikki 2009.01.06)

2011/01/17 写譜 ドビュッシー2
で、しのさんのコメントに対する返答を書いていたらつい自分の主義がはっきりと出てきていることに気が付いたので、あえて今回はそのコメントの模様を載せさせて頂きます。

>このすり抜けてしまうような感覚が、ドビュッシーがドビュッシーたるゆえんなのか。不思議ですもん、美しいのにとらえどころなくてつかめなくて。

まさにそうだと思います。何度聴いても飽きが来ない作品。
考え抜かれている作品で素晴らしいと思います。

私はそういうものになりたい。

>・・・し、しかし、非難覚悟で言うならば、最後の「じゃ、じゃーん!」は要らないのではないかと。これがあるがために、俗世に帰ってしまった感があります。

解説しよう。
しのさんのような捉え方ももちろん素晴らしい感性の現れだと思います。
僕の立場で言わせて頂くなら、終わり方としては最高だと思います。
それまで一貫して3度の音程が展開されてきて、それを締めくくるように曲中の最低音と最高音を含めた4つのB♭のみの音が一発じゃーんと鳴っています。かなり凛としています。

>俗世に帰ってしまった感があります。

今の僕が共感する立場や主義としましては、作品はあくまでもこの俗世に存在し得るもので、その中で限りなくあの世に近いものの創造をめざす。それが芸術作品の本質の一つでもあるのではないかと思うのです。
様々なスタイルがあるかとは思いますが、アーティストは最低限この俗世に存在、認識され得る形式やはっきりとしたなんらかの意思を持って「作品」という形として提示するべきではないかと最近は思い始めています。考え方によっては当然のことを言っているのかもしれませんね。

もちろんその形は時代やそれぞれの主義とともに変化するものだと思いますが、この作品が書かれた20世紀初頭くらいの時代や主義としてはこれがベストだったのではないかと想いがめぐります。もしかしたら時代は関係ないのかな...。

書きたい放題長々と書いてしまいましたが、これがMrYujicianの今のスミズム2011(SUMISM2011=すみの主義2011)ということで、どうぞ本年も宜しくお願い申し上げます。

あっ、本名が出てしまった...。

MrYujician

2 件のコメント:

  1. 「さまざまな形式があるかとは思いますが、最低限この俗世に存在、認識され得る形式やはっきりとしたなんらかの意思を持って、作品という形として提示すべき」

    SUMISM2011。鷲見さんの意思がはっきり見えます。

    そもそも音楽ってものを、感覚で何となく楽しむところがある僕には、お二人のコメントは、新しい解釈のきっかけです。率直に感じた印象と、それに対して、自分の解釈を返していく二人のキャッチボール。一読者の角度から、マテオ=リッチのコメントでした。

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  2. 解説ありがとうございます。

    「認識され得る形式やはっきりとしたなんらかの意思」
    (食いつくところはおんなじですね、スミズムですかね)

    私の言葉にすると、
    表現したいことが相手に伝わって初めて作品になる、
    ということで良いでしょうか。

    私、音楽は耳馴染みが良くてわかりやすいものが好きなんですね。
    簡単だと考えなくていいってわけではないでしょうけど、
    しっかりしっかり向き合って理解しようと努力しないと
    わかんないですから。
    もちろん、その過程が楽しいのは事実なんですけど。

    ええと、だから、そういうことですよね?
    俗世って、わかりやすいってこと。一般的だったり、共感だったり。
    あの世って、個人的なことだったり、不可解だったり、独創性。
    夢現の狭間で、限りなく夢の世界に浸ってたんだけど、
    上り詰めようとした瞬間、突然目が覚める。
    最後の「じゃーん!」が唐突に思えて、今聞いてもそうで、
    今度は頭を使って考えてみた。
    それが今の私の「ドビュッシー/12のエチュード 2.三度のための」の捉え方。
    ヒントをたくさんありがとう。
    でも3度がわからんよ〜〜〜。


    そして、本名は常に右に出ていますが・・・


    しのはずり

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